March 26, 2005

山頭火の俳句



湧いてあふれる中にねている
  (山口県川棚温泉にて)

ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯

  日本経済新聞2004.9.11
   「新・日本百名湯、川棚、温泉教授 松田忠徳のエッセイから引用」

投稿者: 翔@東京 (9月 11, 2004 11:34 午前)


23:32:59 | akybe | comments(0) | TrackBacks

池田晶子の本



「……映像や音声は、一方的に受取るものである。一方的に受け身でいれば、あれらの意味は入ってくる。しかし、書かれた言葉はそうはゆかない。「読む」、すなわち能動的にそれに関わり、そこから意味を取出さなければならない。これが他でもない「考える」ということである。本を読むとは、すなわち考えるということなのである。人が、面倒くさい、難しいと言っているのはこのことで、本を読むのがイヤなのは、考えるのがイヤだからである。しかし、イヤだからと言って考えずにいれば、馬鹿になるに決まっている。」

……

「活字離れと嘆きながら、一方で、年間の出版点数は毎年記録を更新しているのだから、この悪循環の問題点は明らかである。つまり、人が読みたいとも思わない馬鹿げた本を、いかに大量に売り出しているか。
 人間は、そうは言っても、馬鹿ではないのである。くだらないもの馬鹿げたものは、いずれ飽きるに決まっている。あるいは、活字は面倒と、他のメディアに流れる人は、最初から本を読む種類の人ではない。そういう人を相手にしても仕方がない。活字には、活字にしかないものがある。それが、映像にも音声にもない、言葉を読むことの喜びである。言葉を読んで、賢くなる喜びである。賢くなることには、必ず喜びが伴う。この喜びを知る人のためにだけ、少数の本を出版して行けばよいではないか。
 余談のついでの自慢だが、私の本は、十数年前の処女作以来、一冊も絶版になっていない。どころか、少数ずつでも毎年必ず版を重ねている。ひと月すれば棚から消えるという状況において、奇跡的なことだと人は言う。「最初から古典のような動き方をする」とは、書店員の弁である。
 姑息な策を弄さずとも、読む人は必ず読むのである。出版業界人よ、もっと言葉の力を信じよう。」

池田晶子「41歳からの哲学」新潮社2004/7/15 p.76-77

投稿者: 翔@東京 (9月 11, 2004 11:20 午前)



23:31:28 | akybe | comments(0) | TrackBacks



池田晶子「事象そのものへ!」法蔵館1991版 p.177

「神とは実は私ではないのかと予感されながらも、バタイユの無神論があれほど悩ましげであるのは、信仰の対象としてあるべきはずの神への思慕が未だ断ち切れていないためだった。しかし、ヘーゲルという老獪な巨人にとっては、もはや神も私も、自己認識する精神という同一の運動における、たまたまの表徴の違いとしてあるにすぎない。自身を認識しつつ隈なく宇宙を満たしてゆく精神活動の力強い波浪のなかに、抽象的に措定された神や私などは呑み込まれ果て、同じ「自分」の海となる。それが全てだと気づけば、精神はもう悩まない。自己は自身に、「純粋確信」するのだ。」

投稿者: 翔@東京 (4月 21, 2004 11:31 午後)



23:29:48 | akybe | comments(0) | TrackBacks

「わかる」ということ


 池田晶子「考える人」中央公論社1994/9/7 p.29

「彼(=ヘーゲル、引用者注)が言葉を濁した「主観的思惟の陶冶とは、教育学の問題」とは、しかし実は決定的な通告で、ありていに言えば、常に誰かが誰かについて言っている「わかるヤツにはわかるし、わからんヤツにはわからん」なのである。「哲学とは本性上、万人のため」と断言した彼が、なぜこのような憎たらしい言い方をせざるを得ないか。これは、「わかる」のわかり方とは、ある種の気付きだ、これは学習や努力ではどうしても叶わない種類の能力だという事実についての苦々しい吐露なのである。「わかる」ということを不思議と感じない人に、不思議と感じろとは命じられないのだ。これは、嫌いなものを「好きになれ」と命じることができないのと同じ、誤解を恐れずに言うと、体質や生理や品性の問題なのである。こればかりは、まさに、いかんともし難い。私たちは、わからない人に対して「わかれ」と命じることはできない、「わかる」に関する限り、他人にも本人にも手の下しようがない!」

投稿者: 翔@東京 (4月 15, 2004 10:27 午前)



23:28:37 | akybe | comments(0) | TrackBacks

精神生活だけが存在



池田晶子「事象そのものへ!」法蔵社1991

pp.138

「私たちは、心的でない現実というものを全く考えることができない。……目に見えないものこそが目に見えるものたちを動かしているというこの事実は、当たり前すぎて盲点となる。めくらまされてはならない。目に見え、手に触れられるものものの方が、まぼろしなのだ。「精神生活」に対するところに「物質生活」などありはしない。そんなものは、ダイヤモンドに目が眩んだ者の寝言である。ダイヤモンドに目が眩むことができるためには、こころが先にそれを欲していなければならないからだ。こころこそが全てであり、私たちには精神生活だけが存在するのだ。」

投稿者: 翔@東京 (4月 6, 2004 08:52 午後)



23:27:26 | akybe | comments(0) | TrackBacks