October 16, 2009

異次元の二人ーー 石川遼と井山裕太


異次元の二人

(2009/10/15掲載)


 今年(2009年)10月8日〜11日に行われたゴルフのプレジデンツカップ(米国選抜と欧州を除く世界選抜との戦い、サンフランシスコ、ハーディング・パーク、7137ヤード、パー71)で、18歳になったばかりの石川遼に3敗した49歳のペリーは、「すごみを感じた。ウッズと同じ異次元の世界にいる選手のようだった」と述べている。ペリーは米ツアー14勝の実力者である。この結果、石川は、世界選抜のなかで、アーニー・エルスと並んで、最多の3ポイントを上げたのだ。

 世界選抜の主将で、石川を抜擢推薦したゲレグ・ノーマンも「あの若さで重圧を乗り越え、ここまで戦うことがどれほどすごいことか」と絶賛した。(朝日新聞夕刊2009/10/13)

 石川遼が、15歳高校一年生でプロゴルフの大会に初出場し、初優勝の快挙を達成した際にも、この欄で取り上げ(「石川遼、男子ゴルフツアーに初出場で初優勝の驚異})、「男子ゴルフ界にも期待の星の登場である。是非とも、ウッズ並みのスパースターに育って欲しいし、育てて欲しいものだ」と書いたのたが、その後、まさしくウッズ並みの異次元の強さを発揮し、若干18歳で、現時点で日本男子プロゴルフの賞金獲得額のトップを走っているのだ。今日からの日本オープンゴルフ、どういう結果を出すか、わくわくする。昨年は2位だった。同じく弱冠23歳で、賞金ランキングで200万円差の2位に付けている池田勇太との戦いも、興味津々だ。

 ところで、異次元の二人目は、池田勇太にあらず、囲碁界の井山裕太八段のことである。
 現在、囲碁界の覇者というにふさわしい張名人(7大タイトルのうち5冠を保持)と名人位をかけて戦っており、第4局まで、3勝1敗と名人を角番に追い込んでいるのだ。昨日から今日にかけて、第5局が打たれているが、ひょっとすると弱冠20歳の最年少名人が今日中にも誕生するかもしれないのだ。

 異次元というのは、昨年も名人位に挑戦し、3勝4敗で惜しくも名人位獲得はならなかったが、今年はリーグ戦を8戦全勝で勝ち抜き、連続挑戦権獲得を達成したうえ、これまでの4局の戦いぶりが、見事の一語につきるからである。

 3つの劫を同時に争うなど、複雑怪奇とも見える局面が、毎局生じるのだが、一歩もひるむことなく、第1局だけは半目負けしたが、その後は、3局とも、中押し勝ちで勝ちきっているのである。張名人に読み負けるどころか、その上を行っているように、素人目にも見えるのである。これまでの碁とは異次元の世界で戦っているようで、これなら、中国や韓国の世界のトップクラスとも五分に渡り合えるだろうと思わせるものを持っているのだ。

 この井山さんと、今年「藤沢秀行を偲ぶ会」(7月24日)で話す機会があった。
 井山さんには、お師匠の石井邦雄九段をポーランドでお迎えしたことから、年賀状をこれまでやりとりしていて、最初は、井山という頼もしい弟子に注目して欲しいから始まって、最近では、「師弟の立場、逆転、お師匠さんに教えて貰えなくなりました」などのユーモラスなコメントを貰っていることを伝え、今期の名人位挑戦を最終局を待たずに決めていたところだったので、「昨年は実に惜しかったが、今年は、是非、名人位を取ってください。がんばってください」と言ったところ、力強く「頑張ります」との答えが返ってきた。本当にさわやかで好感の持てる若者だった。

 その後、秀行名誉棋聖のご子息である藤沢一就八段と、井山さんの強さを話題にしたところ、彼も井山さんは、中国・韓国の強豪に通ずるものを、日本の若手のなかでは唯一持っていると見ているということだった。

 石川遼が、ゴルフ界のブームを巻き起こしているように、井山八段にも、最年少名人になってもらい、、囲碁ブームを巻き起こして欲しいものである。

(この願いが叶ったのか、10月15日午後4時46分、挑戦者の井山裕太八段が張名人に白番中押し勝ちし、通算4勝1敗として、名人位を奪取した。同時に、最年少九段にも昇格した。おめでとう、井山名人!!)

14:07:54 | akybe | comments(0) | TrackBacks

October 11, 2009

1994年8月スペイン・ポルトガルへの旅

前書き

 2009/10/10  自宅三階の納戸をかき回していたら、偶然、1994年の8月14日から26日まで、スペイン・ポルトガルをレンタカーで旅行したときのメモが出てきた。その前年にイギリスを2500km、これもレンタカーで旅行し、味をしめ、この年も、妻同伴で出かけたのであったが、メモを残していたとは思っていなかった。



 前年のイギリス旅行は、原稿用紙500枚に及ぶ詳細な旅行記(「イギリスを走ろう」)に結実しているが、スペイン・ポルトガルの旅は、このささやかなメモがのこるのみである。酷暑のイベリア半島を、バルセロナからリスボンまで、ちょうど2000km、苦労もあったが、実に愉しい旅であったので、ここに掲載することにした。



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旅程

1994/8/14 成田空港→ロンドン・ヒースロー空港経由→バルセロナ空港着。泊バルセロナ(友人W氏別荘)

1994/8/17 バルセロナ→エル・サレール(パラドール泊)

1994/8/20 エル・サレール→グラナダ(パラドール サンフランシスコ泊)

1994/8/21 グラナダからマレージャヘ。

1994/8/22 マレージャからセビリアヘ

1994/8/23 セビリアからリスボンへ

1994/8/25 リスボン空港ロンドン・ヒースロー空港経由→成田空港へ

1994/8/26 成田空港着



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1994/8/13 自宅

 今日、本機(ポケット3:小型携帯ワープロ)を購入。少々小さいので扱い難いがザウルスよりは便利。聞違いなく入出力出来るので安心感がある。明日から26日までスペイン、ポルトガルヘ出掛けるので、携帯用 に買ったのだ。折角メモしても、後で使うとき手書きだと加工が利かないので、オアシスとの互換性のある本機ならと思い、選んだのである。新宿西口のヨドバシカメラで約7.5万 円。安くはない。



 旅行ケースヘのパックも終わった。あと「スペイン」を読むだけだ。



 相変わらず東京は暑い。スペインはどうだろう。丁度一年振りの海外旅行。今回も昨年 のイギリス同様、ドライビング旅行だが、右側交通なのでその点が心配である。いきなり、左から右だと感覚が狂い、とっさの時にハンドルを反対に切りかねないのだ。せいぜい用 心深く運転するよりあるまい。



 出発を明日に控えて、妻は何となくドキドキする、という。しかし、じわっと喜びも 湧き上がってくるともいう。少々母が弱っており、ちょっとボケ気味なのが気がかりなのだ。今朝もあら毅一郎さんは出張じゃなかったのと言いだした。確か我々の海外への旅 行も明後日からじゃなかったのともいう。何となく覇気がない。しかし、一頃よりは元気になった。



 夕食は、全員揃って壮行会。娘も明日からカルフォルニアの恵ちゃんのところへ行 く。息子は、今日は朝がテニスで夜は東京湾の花火大会。夕食会も欠席。



1994/8/14

<スペイン・ポルトガルの旅へ>

8時50分から  スカイライナーの車中。



 定刻に日暮里を発。快晴。空がお盆の時期とあってことのほか澄んでいる。自宅を7時45分に発ったところ、日暮里で30分待つ。高田馬場まで、タクシーに乗ったが、道路もがらがら。相変わらず気温は高い。買いたてのスーツケースはよく滑って扱い易い。玄関先で父母が見送ってくれた。元気でねとお互いにエールを送って別れる。



2時30分JL#401の中。

 飛行機は45分遅れて飛び立った。ハバロフスクの上空は管制機能の制約とやらで15分に一機しか飛行が認められないので、この時刻待機させられることがままあるらしい。いま日本海の上。赤ワインの小瓶をほぼ一本空ける。おつまみはナッツ類。ワインはボルドーのBeau-Rivage。アルコール12%。

 今から食事。温かいヒラメのグラタン。おなかが空いていたので食欲が弾む。2時55分食事終わり。ところが食事になった途端に揺れが激しくなり、シュチュワーデスのサービスは暫く休止。3時5分、コーヒーが来る。時速818km、高度10700m。ハバロフスクまで後207km。時刻3特18分。後10時間14分でロンドン。



4時15分。今トイレから戻ったところ。機内は温度が低く、黒の半袖のポロシャツの上に、ピンクの長袖のシャツを着込み、もう一枚薄手のカーディガンを着込んで丁度いい。

機種はB747‐400/INT。一部が二階席になっている。成田でこのポケット3用のメモリーカードを探したが見つからず仕舞い。既に20ページのうち1ページ分は終わった。旅行中、保つだろうか。ヒースローでもう一回探してみよう。



4時30分、早速最初の買い物。真珠のイヤリング、2万円也。地上では決してこの値段では買えない由。シュチュワーデスが3人がかりで勧める。お似合いですよ。ヨーロッパでは真珠をつけていますとワンランク上に見られますのよ等々。最後のお願いだね。ノー最初のお願いよ。8mmに収める。ビールを一缶飲む。サントリーのモルツだ。



7時35分…後ロンドンまで4600km。7時半まで、映画を見た。ウオルト・ディズニー映画で「IRON WILL」(白銀に燃えて)800KMを犬橇で競争する物語。18 歳前の少年が勝つ。いかにもアメリカのヒーロー物語的な内容だが、そこはうまく出来ていて、ついつい夢中になってしまった。涙も出た。



飛行高度11600M、シベリア上空。目の前のスクリーンに立体地図があってそこに航跡が赤く描かれる。シベリアはいかにも平べったい。アジアの南半分には随分と皺が寄っているが。
 妻は横になった。



11:00   

10:30から食事。メインはチキンドリア、クレシー風。米が固くなっていて、歯が痛い。それに野菜サラダとフレッシュ・フルーツ(キュウイ、パイナップル、サクランボ、トマト、杏)が付く。フルーツにもフレンチドレッシングを忖けて食べる。赤ワインを二人で一本貰う。その前に映画を一本見た。フランス映画「伴奏者」戦時中の歌手とその伴奏者を描く。飛行機は、セントペーターズペルグを200km遠ざかった地点。後2時間と10分で着く。



 このワープロにも次第に慣れてきた。扱いやすい。買って良かった。手書きでは後で使 うのが不便だが、これなら後でいかようにでも料理できる。先程まで毛布を三枚も体に巻きつけ、鼻水を垂らしていたのだが、機内は少しあったかくなり、肩に巻いていた二枚の毛布を取った。鼻水は依然として出る。



11時15分。 05:5 後20分で到着。現地時間は午後4時55分、まだ日は高い。温度は19度の放送あり。日本に比べれば相当低い。着込んだシャツはそのままで良さそうである。



 ロンドン時間一 18:30 OBAに乗り込んだところ。日はまだ眩しい。一年前はマーローに落ちついた頃だ。これからバルセロナまで3時間。下りてみたら気温は案外高くて半袖になった。ヨーロッパの各地への乗換用のラワンジは裏玄関の様相で、いささかシャビー。言葉も様々なのが乱れ飛んでいる。服装もおしなべてラフ。



1994/8/15 10:12 バルセロナ,Wさんの別荘のテラスにて



 昨夜空港でWさん親娘(モニカちゃん8歳)の出迎えを受け、一路この別荘に。午前一時まで話して、就床。今朝は10時に起きて、朝食後、バルセロナに。聖家族教会、ミラー邸、グラー邸、埠頭を経て、オリンピック時にできた海岸レストランで昼食。海産物のフリッター。イカのリング揚げ、蛸の揚げ物、トマトパン。サングリア(ワインとジュースと砂糖とオレンジやレモンの切ったもの)ポテトチップ。約5000pst.



 その後で、モンジュク(ジュウの岡の意。ユダヤ人の岡だ)へ。オリンピックの施設を展望台から見る。その後頂上まで登り、カステイジョ城(ミリタリー博物館)から市内を一望。フニクラに乗る。フニクラの下には遊園地、公園あり。



 フニクラを降りて、海の方向へ暫く散歩。素敵な道だ。人のあまりいないプール。滑り台。スキー練習ゲレンデ、何でもある。海を越すフニクラの発着所まで行った料金が一人 1100pst.もするので諦め、引き返す。モニカは膨れている。最高級作宅街、そこにあるガウディ邸を見て、やや下町風の一角にあるWさんのマンションに寄り、喉を潤す。



Wさんの別居中 の奥さんと道路側ですれ違い、グエル公園に行く。これもガウディの作品。夢があり、調和があって素敵だ。赤茶けた土の色、煉瓦も同様に赤茶けている。郷子やしゅろや竜舌蘭などが、生い茂っている。9時近いのにまだ明るい。つい時間を忘れて歩き回る。



W氏別荘に引き返す。着いたのが9時30分。10時半ごろからバーベキューの夕食。炭焼きのラムがおいしい。ピーマン、タマネギ。卵とタマネギのサラダ。料理がうまい。12時半まで。今12特53分。



1994/8/16 午前9:47 W氏邸のトイレの中。



  例のベランダで照りつける強い日差しの中で

朝食を終えて、出発の準備。今日はまずピカソ美術館に行く。最初はすぐに海水浴に行くつもりだったが、それだとモニカ・デーになりかねないので、まずピカソを見ることになったのである。朝食は絞ったオレンジジュース、トースト、スクランブルドエッグ、ミルク、ジャム、マーマレード、コーヒー、バター、チーズ。



食欲も旺盛。昨夜も良く寝れたし、時差も今のところ感じない。順調に適応したようである。Wさんは昨夜、われわれが寝室に引き上げたあと私が持参した私のエッセイを読みおえて寝たのだそうだ。相変わらずタフだ。バルセロナの陽光と澄んだ空気がそうさせるのかも。映画の話にひとしきり花が咲く。「地上より永久に」が良かったが今では感激させられるものがなくなったとも。



 専務所に行き、クレジットで支払う。62万pst.。大聖堂を見る。凄い。道からその一部が見えるパティオも迫力ある。中庭に青々と空に届くような大木が繁っている。白鳥がいる、鴨がいる。ステンドグラスも美しい。凝りようが凄い。近くの街の建物も、扉の一つ一つ、壁の飾りの一つ一つに意匠を凝らしている。



ピカソ美術館に行く。狭い道に面している。入口に人の行列が出来ている。入口でギターを弾き、カセット・テープを売っている人がいる。「禁じられた遊び」。一巻き500pst.。あとでWさんが禁じられた遊びが好きというので二巻買って、一巻を我々に土産にくれた。



ビカソの少年期からの作品が並ぶ。少年と思えない内容。ベラスケスの女官たち(プラド美術館にある)のモチーフによる作品類は流石。鳩のモチーフによる作品群もいい。同じ主題を変化させ、多様な作品を生み出すアイデアが見どころ。



 昨日満員で入れなかったカーサコスタで昼食。(2:30)。あさりのマリーネ煮。小魚のフリッター。蛍イカの揚げ物。パヤーリア。スパゲッティのイカ墨煮。サングリア。いずれも美味。腹一杯食べる。



 海水浴場へ行く。Wさん親子が泳ぐ。トップレスもいる。お婆さんもやっている。おなかの大きな女性が多い。トップレスの女性と恋人が水際で戯れている。子供たちもはしゃいでいる。日本の子供と少しも変わらない。モニカも大喜びで、一人だけの時も始終にこにこしている。なかなか上がって来ない。



 メルセデスとアルトーロを迎えに行く。アルトーロは二才。メルセデスはなかなかの別嬪。気が強そうだ。家に帰ってからビニールの小さな水槽で泳ぐ。



 オリーブ油の食べ物を取りすぎ、海水浴場で暖まり過ぎたせいか、W氏別荘に帰ったあと、げっぶがやけに出て、気持ちが悪くなり、少々休む。かなり遅めの夕食。Wさん手作りのの素麺と海老のかきあげ。もっぱら素麺を食べかきあげはほんの少々。メルセデスは、出てこない。Wさんが、アルトーロが何でも口に入れるので、入れないように躾けは出来ないのかと文句を言ったら、機嫌を損じたらしい。夜更けまで、色々と話す。



1994/8/17 午前10持半まで、W氏別荘でゆっくりし、出発。メルセデスも気分を直して、にこにこしている。食堂に掛かっていたメルセデスの絵を褒めたら、地下室の絵まで引っ張り出して見せてくれた。猿、キングコング、マリリンモンロー‐。男、女、いろいろなイメージで奔放に描いている。個展もやったらしい。メークアッブの専門だったので手で描くのだそうだ。売れるところまで行くか少々疑問。



 途中でメルセデス親子を下ろす。そのあとハーツの事務所まで連れていって貰う。車はオペルかプジョーかと聞かれて当然プジョーを選ぶ。シルバーの1800cc。マニュアル車だ。久しぶりのマニュアル、加えて右側交通。高速に乗るまでWさんの車に先導してもらう。



 無事、高速道路に乗る。最初は用心深く走り、次第に速度を増す。道路は走りやすい。しょっちゅう料会所があって、小金を取られる。山は赤茶けており、木がぽつぽつ生えている。オリーブの果樹園は緑が濃い。途中で軽食をとり、バレンシアの北で降りる。道がハッキリしないのでまた、高速に乗る。今日、泊まる予定のエル・サレールの標識が出ていると聞いていたのでそれを頼りに走るが一向に出てこない。どうもおかしいと思って高速の料余所で確かめるとかなり来すぎていることが分かった。引き返す。640pst.を二度払う。



バレンシアの標識があったので、右に曲がる。いつの間にか高速がなくなり市の中である。センターを目掛けて走る。二人連れのお巡りさんがいたので止めて聞く。一方は英語を話さないが、一方は良く話す。直進して、川の手前を右に曲がり、そのまま真っ直ぐ進めという。川の手前を曲がるはずが行き過ぎて、もう一度ロータリーをぐるりと回って引き返し、真っ直ぐ進む。やっとエル・サレールの標識が見えた。ほっと安心。ひたすら直進する。街に入ったものの、何の標識もない。走っているうちに街を出てしまった。おかしいと引き返す。海水浴場の看板が出ているので、右に曲がる。大きなキャンプ地になっており、ホテルなどもあるが肝心のパラドールは見当たらない。駐車場の係の人に聞くと、先程走った道をもっと真っ直ぐ進めという。また引き返す。



 道路にホテル8km先の表示あり。これかと思って進む。小さくパラドールの名前が出ている。慌てて左にハンドルを切る。暫く進むと白いバラドールの建物が見えてきた。午後6時。一日がかりだった。



 部屋は悪くない。ホテルはゴルフ場に取り巻かれるようにして建っている。見物に行く。フラットな風格のあるゴルフ場でまだこれから出る人、プレイを終えて上がって来る人。グリーンで練習している少年たち。みんな自分でカートを引いて回っている。

 男女の二人連れが18 番ホールで第二打、グリーンを狙っている。ずうっと海辺まで繋がっているようだ。その向こうに地中海が見える。もう日はかなり傾いているが、先程の二人連れはもう一度一番ホールのティグランドヘ向かった。クラブの壁にポスターがあるので見ると、1993年にヨーロッバベスト50のベスト2に選ばれたことがあると書かれている。



 夕食は、その日のスープ(野菜スープで美味)、海産物のソテ。それが海老類が二種に魚が3種類。とてもじゃないが食べきれない。パエリァを頼もうとしたが、予め頼まなければならないという。飲み物は勝子気に入りのサングリア。ホテルによって入れる果物が違い、味も少し違うが結構美味しい。





 エル・サレールからグラナダヘ。朝食は、シリアルにヨーグルト。オレンジジューース。オレンジシュースは生を絞ったものなのですっかり気に入った。



1994/8/18夜



タクシーの504のはずが405が特っていたのに、ポテルの受付が間違えたのよと、乗り込み全く遂う場所に連れていかれ、慌てて引き返す。翌日市内観光に乗ったら、ジプシーの家の近くの展望台のすぐ側にその建物があった。一度その中に入ったが、木の椅子が並べられていて、後で入った店に比べろとかなりちゃちな感じの店だった。



 フラメンコは、8歳ほどの女の子が出てきて踊ったが、プロ意識に徹していてなかなか見事な踊りだった。この踊りの激しさは、並のものではない。舞台でタップを踏む激しさは、骨がぎしぎし軋みそうだ。歌も独特の歌い方で哀愁がある。男も女もスタイルのいいこと。ため息が出る。一人で踊ったり、組んで踊ったり、最後にチーフとおぼしき中年の女性が普通のスカートを着た服装で踊ったが、流石に年季の入った立派な踊りで、手を叩いて出す音一つにしても、大きさが違う。



セビリアでフラメンコを見てきたという千葉の二人の女性と話す。マドリッドに入り、列車(高速のが最近出来たらしい)でセビリアに行き。採したホテルが気に入ったので四泊し、闘牛も見てきたという。このパラドール サン・フランシスコは半年前に予約したという。セイリアでレンタカーし、返却時間が迫ったので500km走ったという。運転したのは旅慣れて、今回初めての友達を誘った方。なかなか頼もしい女性もいる。


1994/8/19午前9:10 パラドール サンフランシスコにて朝食。


昨日午後5時過ぎに到着。全くいい所だ。庭がいい。近くを散歩。カルロスの円形の宮殿あり。歩くのに最適。



1994/8/20一グラナダ



1994/8/ 21グラナダかふマレージャヘ。



1994/8/22一マレージャからセビリアヘ。

 前日のオーストラリア人の忠告に従ってロング経由で。山のなかの道で箱根の道並にくねくねと曲がっている。景色はいい。峠を越えた所で大渋滞。前に遅いローリー車が三台繋がったため。深くえぐれた谷あり。



 滅多に見かけたことのない、土砂漠とでもいうべき広大な荒れ地あり。紫色、黄土色、様々な色が混じり合って。奇妙な感触。



 セビリアは大都会。街に入って、数カ所で道を尋ね、やっとホテルに着く。



駐車場が少ないというので外出は専らタクシーで。妻がショッピングしたいというので、出る前に書き留めておいた、シェルペス通りというショッピング街を運転手に言う。



 確かに、いろいろといい店が軒を連ねている。靴屋が多いのが目につく。だがまだオープンしていない。5時半や6時から開くようだ。見ると大きな建物が見える。地図の位置からして大聖堂のようだ。買い物の前にそこを覗いて見ようと行ってみる。



 大きな立派な、言葉を失わせるような代物。どこに行ってもスペインの建築物は凄い。まるでこれでもか、これでもかと迫ってくる。ぎりぎりに入場出来た。ヒエルダの塔に登る。 34回もぐるぐる回り廊下を回ってやっと塔頂にたどり着く。市が一望のもとに見渡せる。ゴティック作り。コロンブスの墓がある。



近くのアルカサールヘ行って見ると、月曜で休み。買い物に引き返す。馬車が多い。街の入口でジュースを飲む。65センチの奥行きしかないトイレに入る。買い物。鞄、靴、みやこの金の首飾り。バンドなど。安い。

 夕食はホテルで取る。


1994/8/23 セビリアからリスボンヘ。

 朝食後、アルカサールを見に、タクシーで。着くとまだ開いていない。銀行を探してベセタからエスドロヘ。ところが、やっと三軒目で。

アルカサールに戻ると既に長い行列が出来ている。しかも、切符売り場が自動化されていて、一々100ペセタに換えなければならない。それだけで20分近くかかった。



これまた素晴らしい建物。模様が素晴らしい。庭もいい、駆け足で見るのがもったいない。奥に行けば行くほど次々にいい物が出てくる惑じ。



 戻りのタクシーの運転手が、これが闘牛場だ、これが1992年の万博の跡地だ、と説明してくれた。参加国が105もあったと紙にまで書いてて教えてくれる。親切だ。



11時までにホテルに引き返し、出発。ホテルのデスクに聞いた通り行くと、高速に出ることが出来た。もう走るだけ。これまで約1500キロ走っている。



国境のかなり前からポルトガルの表示が盛んに出てくる。国境には橋がある。それを越えたところに検問所があるのかと思っていたらなにもない。ひたすら走るだけ。景色はあまり変わらない。赤茶けた土と、疎らに生えているオリーブが主たるモチーフの道だ。



 右手に地中海が見えてくる。しばらく行って、パーキング場に駐車。トイレがないがそのへんに糞が転がっている。早めの食事。サンドイッチと果物。日差しは強い。



 道を右に曲がって海岸線から離れた所で、高速道路が切れ、一車線の一般道路になる。追い抜く車が実に乱暴で、急ブレーキをしばしば踏まされる。コルクを取った後らしい木が沢山ある。木の皮が向かれた所が、赤い。暫くたったのは黒くなっている。結構大きな木である。スペインのオリーブー辺例の植生より豊富な感じ。緑も多くなって来た。



 道端で果物を売っている。オレンジやカボチャなどで店毎に違ったデザインの看板を掲げている。止まって買い物。8mmを向けるとお兄さんの方は恥ずかしがって隠れる。お母さんが撮って貰えという。弟の方を撮る。メロンを一つ買って、秤に掛けている母親と娘を撮る。



 リスボンに入るかなり手前から渋滞。五寸刻み。見ると逢か向こうの橋まで延々と繋がっている。驚いた事には橋の手前で20台ほど横に広がり、それが橋の上では2台にされてしまうのである。突っ込んで行くより生き残る術はない。橋の上から左右に町並みが見える。市内に入り。目抜き通りから少し入ってところにあるホテルに着く。



 途中で、ホテルまでの道を聞いた。それぞれ親切に教えてくれたのはいいが、最後にもうそろそろこの近辺だと思い、女性遅れの三人に確かめようとしたら、これまで教えられて来たのと全く反対の方面にあるというのには参った。しょうがないので通りかかったタクシーを止め、遠ければ先導してもらうつもりで確かめると、やはり思った通りのすぐ近くの角を右に折れた、とても分かりやすいところにあった。船頭多くしての諺を地に行く感じである。


近くの旧市街へ出掛ける。シャンゼリゼを摸したというリバティ通り。大きな街路樹。歩道がたっぷり取ってあり、レストランや水路まである。



 ロシオ広場。


 夜はファドを聞きに、MACHODOへ。ホテル推薦の店で、実に楽しかった。



 料理は野菜スープとスペシャルのチキンのポット煮。ポートワインと赤ワイン。それにバター、パン、オリーブはついてくる。



 妻はあさりのポルトガル風をとった。これも美味。チョコレートムースとコーヒー。ムースは3人分はありそうで半分は私の胃袋に納まった。初老のボーイが好人物で、私はボーイ兼ティチャーだと言って、ボルトガル語を教えてくれる。写真もとって貰った。



隣の席にシカゴからのセールスマンらしいアメリカ人夫婦。その隣にアメリカ人らしい若い女性の二人連れ。太っている。写真を取り合い、12時過ぎまで仲良く話し合った。



タクシーで帰る。タクシー代は安い。乱暴な運転。道は坂が多く、市電が通っており、曲がりくねっている。



そこをおんぼろ車でとばす。がたごとと。いろいろ教えてくれる。道を渡ろうとしていたら車が来たので引っ込んだら、車が止まってくれてどうぞと言う。道を渡ったら運転手が窓から顔をだし、こんばんわ。有りとうをいうとどういたしまして。日本語を話す。



1994/8/24 午前10:04リスボンのホテル リスボアプラザ。



朝食を終えて部屋に戻ったところ。テレビを付けたら日本語が飛び込んできた。アニメを日本語でやっているのだ。字幕で。ポリアンヌ。チルトン医師。足の病気に掛かったポリアンヌを医師が救う話だ。



朝食はシリアルにラズベリーのジャム。ヨーグルト。桃。ヨウナシ。ハム。メロン。オレンジジュース。コーヒー。紅茶。



なかなか美しいホテル。4星。リバティ大通りのすぐ近く。旅もいよいよ明日で終わりだ。



 ジェロニモ城からは、リスボンやリスボン湾が一望できる。小山の頂上にあるにもかかわらず、池や水路があって、小さな鳥の動物園もある。孔雀がゆうゆうと歩き回っている。池や水路には白鳥、驚鳥、アヒルがいる。囲われた網の中には、七面鳥、鶏、名も知らない小型の白い鳥。白鳥の子は醜いアヒルの子と言われるだけのことはある。白くなくて、薄汚れた鶏の雛がそのまま大きくなったような感じだ。どの鳥にも親鳥ともども雛がいる。人を見ると金網の所まで走ってきて毛の薄い首を伸ばして餌をねだる。可愛い。

市民にとっては恰好の憩いの場所だ。風が冷たいほどだ。

城砦に登ってかなりおっかないようなところを歩くことが出来る。日本人観光客もちらほら。



 昼食はシーフード店で、蟹とドーズとかいう巻き貝を食べた。

蟹は少し塩辛かった。貝は尻尾の先がうまく出せなかった。入口と椅子が違っていて、値段が違うか、妻と論争した。イタリアでは同じものでもカウンターとテーブルとでは値段が3倍違うという。(昨日のテレビで見た。)


 最後の夕食はホテルで。アペルティフには、ホテルのサービス券を利用して、ポートワイン。甘味が強く、褐色の色。なかなかいける。酒は、ビーノ・ベルデを飲んだ。薄い黄緑がかった色。軽い発泡性。

 スープはオニオンスープ。日本のもののように茶色ぽくなく、タマネギそのものの白い色。味も柔らかく美味しかった、チーズも焼いたパンの上に薄く乗っている程度でしつこくない。あっさりしている。豚肉が、牛よりいいというので、豚肉のソテーを頼んだが、肉そのものに味があり、美味かった。

 デザートは11種類あったので、全部少しずつ貰って来て食べてみた。どれもとても甘い。しかし、それぞれに味がある。京都の老舗の銘菓と言われる卵菓子と同じものがあった。オリジンはポルトガルなのかも知れない。妻は、野菜スープとリトル・サロー,イン・ステーキ。あっさりしていて美味しかったらしい。


1994/8/25 午後3時45分。リスボン空港。

3時発の予定が大福に遅れ、依然として待機中。

 今日は8時に起床。朝食後、チェックアウト。買い物へ行き、お土産を買う。自分用のバッグもいいものがあったので買った。今それを持って歩いている。

 昨日妻のカーディガンを買った店の前にある貴金属店で、シルバーの記念スプーンを買った。驚くほど値段が安いので、わざわざ刻印を確認したほど。

 小柄で小太りの女の店員が、我々が英語で話しかけると、隣の店からやや痩せた長身の女性を連れて来た。英語の手助けに頼んだのである。ところで、その店員も全く出来ない訳ではない。我々が話すと頷いたり、一言二言軽い相槌を打ったりする。大体、分かっているのにいかにも恥ずかしそうに話す。連れてこられたほうが、ほら、そんなにできるんだから、あなたは私をいちいち呼びに来なくても大丈夫なのに、いつも私を呼ぶんだから、と苦笑しながらなじる。それに対しても照れくさそうに笑っている。外国人に話しかけられて、応援を頼む日本でもお馴染みの光景である。何となく素朴で好感が持てる。


12時少し前にホテルを出る。教えてもらった順路で12時20分には空港に着く。ハーツの駐車場は満杯。やっと入口近くに駐車。運搬用のカートは遠くまで行かなければ無い。取ってくる。ハーツの事務所はその途中にある。

プジョーは20年前も高速性のいい車だったが、一段と磨きがかかったようだ。当時も140キロを巡航速度としていたが、その程度はやすやす出る。切れがいい。バルセロナからリスボン空港までの総走行距離はちょうど2000kmに達した。


 8/23に、ポルトガルに入った時に買ったメロンはその後二日間車の中に放置され、結局リスボンの空港で賞味されることとなった。車の中で熱を加えられたために、中心部がやや熟れすぎていたが そこをこさいだ下の部分はまあいける味がした。


 入国管理の職員に8mmカメラを向けたら、きっとした顔で咎められ、危うくフィルムを没収されるところ。撮ってない、確かめたければフィルムを巻き戻して見せてもいい、と言って、切り抜けることが出来たが、明らかにこちらのミス。気をつけなくっちゃ。冷や汗の一幕。



1時間近く遅れてKLM機が出発。



午後5時28分。機中。食事が終わったところ。赤ワイン。VINALCCORTACAMMMPOVIEJORIOJACRRIANZA1989を飲む。鶏肉とサフランで色をつけたライス。サラダ。チーズ、ケ-キ、オレンジジュース。ポルトガルを上空から見ていたが大きな山はない。山の頂上がフラットな山があった。山には余り木は生えていない。左手に海岸線が白く見えていたが、先程北限を越え海に出た。



パンはとても美味しい。こんなパンが日本でも出来るといいのに。朝食べて9時間もたっているので結構おなかに入る。機内は満員、補助席に座っている人もいる。シュチュワーデスは流石に大きい。ラテン系の人とは違う。入りロでグーテタークと言ったら通じた。



 5:41 お茶が来た。お茶を頼む人が少ないらしく、持って来たシュチュワーデスは、妻が頼むと大喜び。私もコーヒーの筈を切り換えて頼むと。更に大喜び。陽気である。



 このワープロは極めて順調に起勣する。やはり持ってきて良かった。スペインやボルトガルににいる間は忙しくて余り打つ暇が無かったが、機中はたっぷり暇がある。いよいよ活躍の時が未だ。



 「ナッツ類」 旅行にナッツ類を持っていったが役にたった。車を走らせていて、ちょっとおなかが空いたときに、ホテルの自室で飲んだとき、酒のつまみにもなった。外に出掛けるほどおなかが空いていないときなど役に立つ。



岡の斜面に重なり合うように出来た町並み。コスタ・デル・ソルにも多く見かけた。

どこも陽気で深刻な顔つきをした人にはお目に掛かれない。服装は銘々勝手で、ラフなものが多い。体を平気で出す。海水浴場では、若い娘だけではなく相当なお婆さんも平気で胸を出している。ホテルのプールでも。とにかく暑い。日本のようにやせ我慢するような感覚はない。

川には水がないものが多い。二週間いたが、晴天続き。雨は一度もない。曇ったのもほんの少しだけ。沃土は少なく、地味は痩せている。どこも赤みを帯びた土。オリーブの木もお互いにかなり間をとって植えられている。オレンジの葉の色は強い緑。花は原色の鮮やかなものが多い。沖縄並の植生か。道路はどこも空いていてかなりの速度で走れる。グラナダからコスタ・デル・ソルに出る山のなかの道が混んだ。コスタ・デル・ソルには長い長い海水浴場がある。

 ロンダ経由の道も曲がりくねっている。



オリーブ油は、日本人にとっての醤油だ。何にでも付けてたべる。小さな女の子は、オリーブ油の塗ってあるサンドイチに更に付け足して食べていた。(エル・サレールからグラナダ間)



「水」水も忘れるわけにはいかない。水は必需品で持ち歩いて、脱水症状にならないように適度に飲まなければならない。空気が乾燥しているので、日本でのように汗はかかないが、絶えず蒸発しているので水分を補給してやる必要があるのである。

水は、プラスチックの瓶やガラスの瓶で売っている。バールで買える。食堂で大瓶を頼んで持ち出したりしてもよい。



 ところで次の「時評」(月刊誌)の随筆は「国境線」にしようかと考えている。

ポーランド時代に国境を車で越えた経験と今回の経験とを対比させる。車で走ると、スペインーポル間は何もないのだ。所がリスボン空港のパスポートをチェックする所では、それを知らず入国のスタンプがないと首を傾け、私が説明しても半信半疑で上司らしい人が実情を説明してやっと納得する始末。



 東欧圏の国境は厳しかった。チェコでのこと、使い残した小銭で昼食を取ろうと車を走らせいたがなかなかいいレストランが見つからない。走っているうちにたちまちハンガリーとの国境らしいところに出てしまった。しょうがないので、あわててUターンすると道の脇の林のなかから自助小銃を持った兵士が走り出てきた。止まれと叫んでいるらしい。急ブレーキを掛けると、国境警備隊の兵士が駆け寄って来て、何事か叫ぶ。どうしてUターンしたのか誰何しているらしい。言葉は全然わからないが、怪しまれているらしい。そこで拙いドイツ語と身振り手振りで、小銭を持っているので昼食を取ろうとUターンしたと一生懸命説明してやっと無罪放免になった。



束ドイツと西ベルリンの国境では車の下に大きなミラーを差し込まれ、トランクも空けさせられた。見張り台の上から小銃を構えた国境警備隊の面々が見下ろしており、ジグザグになった道をスローで通らなければならなかった。



商社の人の話では、チェコでは国を越すのに4時間、国境で8時間ということだったが、われわれは外交特権で前に出ることができた。それに引き換えると、西側諸国間の国境は簡単で、パスポートとグリーン・カードを見せれが良かった。ても見せる必要はあった。ところが、この夏レンタカーでスペインとポルトガルの国境を越えたところが。なにもないのである。いまやEUの時代で、国境線越えも楽になったのだろうか。



日本人には国境は馴染みが薄い。稚内から樺太を望むとそこに国境があるとは思う。北方領土の島も目の前に見たことがあるが、いずれも海が国境線で、陸地の何でもないところに、国境がある例はない。オーデル・ナイセ川にしてもなんでもない小さな川で戦車ならひとまたぎの川だ。


18:09トイレに立つ



何もない国境が本来理想であろう。EUの実現はそれを可能にするのであろうか。
(参照:エッセイ「国境の今昔」に結実)




 18:31降下始める。





13:10:01 | akybe | comments(0) | TrackBacks