March 29, 2005

「英語で読む万葉集」より(2004.12.14)


…とくに花が「咲く」ということは、「裂く」というエネルギーの活動をはらんでいるので、単なるbloomよりも split into blossaoms、「花へとさく」、という表現になってしまう。(p.15)

 ひとつの季節が「過ぎる」という経過の中に「時間」が視覚的に見えてくる。それは日本語の詩歌の伝統において根本的な手法となっていく。持統天皇の香具山の歌は、書きことばとしての日本語の出発点において、ひとつの手本をなしている。
 だから、「過ぎる」は、きわめて重要な日本語なのである。その英訳は、passとかpassingになる。「過ぎてゆく」ことを一千年余にわたって描きつづけてきた和歌も、物語も、それらの英訳を読んでいると、pass、passing、passed という動詞がどれだけ多く出てくることか。(p.19)


そして「らし」という、その動きの表現をやわらげるような、最も日本語的な日本語。(同)
12/14/04 15:52:22

15:40:30 | akybe | comments(0) | TrackBacks

March 27, 2005

白川静の世界 

日経新聞2005.3.27
「遅咲きの人」51
長距離ランナー 白川静」
ー一日の過ごし方は。
「午前六時に起床、八時には執筆。昼食後、一時間ほど睡眠。午後二時から作業を開始。七時過ぎに夕食をとるまで、二度ほど、お茶とコーヒーを飲む。午後九時就寝。日常の秩序が大切です」
ー仕事の計画は。
「七十代では十年計画。八十代では五年計画。九十代は三年計画を立て、ただ今『金文通釈』九冊の改訂版などを刊行中。今後は三年間に『甲骨金文学論叢』上下巻など六冊を刊行したい。その先は神様のおぼしめしをうかがってから決める」
ー研究のエネルギーを支えているものは。
「戦後六十年の我が国の歩みには、主体的な国家の誇りに欠けるところがある。戦争やアジアを分裂に導いたことへの反省も十分でない。そうした歴史認識がエネルギーの根源にある」

白川静(1910年福井市生まれ。小学校卒業後、大阪の法律事務所に住み込みで働き始め、夜学に通う。43年立命館大卒。54年同大文学部教授。91年『字統』などの著作で菊池寛賞。04年、妻つるを亡くす。文化勲章受章。

14:08:57 | akybe | comments(0) | TrackBacks

March 26, 2005



池田晶子「事象そのものへ!」法蔵館1991版 p.177

「神とは実は私ではないのかと予感されながらも、バタイユの無神論があれほど悩ましげであるのは、信仰の対象としてあるべきはずの神への思慕が未だ断ち切れていないためだった。しかし、ヘーゲルという老獪な巨人にとっては、もはや神も私も、自己認識する精神という同一の運動における、たまたまの表徴の違いとしてあるにすぎない。自身を認識しつつ隈なく宇宙を満たしてゆく精神活動の力強い波浪のなかに、抽象的に措定された神や私などは呑み込まれ果て、同じ「自分」の海となる。それが全てだと気づけば、精神はもう悩まない。自己は自身に、「純粋確信」するのだ。」

投稿者: 翔@東京 (4月 21, 2004 11:31 午後)



23:29:48 | akybe | comments(0) | TrackBacks

「わかる」ということ


 池田晶子「考える人」中央公論社1994/9/7 p.29

「彼(=ヘーゲル、引用者注)が言葉を濁した「主観的思惟の陶冶とは、教育学の問題」とは、しかし実は決定的な通告で、ありていに言えば、常に誰かが誰かについて言っている「わかるヤツにはわかるし、わからんヤツにはわからん」なのである。「哲学とは本性上、万人のため」と断言した彼が、なぜこのような憎たらしい言い方をせざるを得ないか。これは、「わかる」のわかり方とは、ある種の気付きだ、これは学習や努力ではどうしても叶わない種類の能力だという事実についての苦々しい吐露なのである。「わかる」ということを不思議と感じない人に、不思議と感じろとは命じられないのだ。これは、嫌いなものを「好きになれ」と命じることができないのと同じ、誤解を恐れずに言うと、体質や生理や品性の問題なのである。こればかりは、まさに、いかんともし難い。私たちは、わからない人に対して「わかれ」と命じることはできない、「わかる」に関する限り、他人にも本人にも手の下しようがない!」

投稿者: 翔@東京 (4月 15, 2004 10:27 午前)



23:28:37 | akybe | comments(0) | TrackBacks

精神生活だけが存在



池田晶子「事象そのものへ!」法蔵社1991

pp.138

「私たちは、心的でない現実というものを全く考えることができない。……目に見えないものこそが目に見えるものたちを動かしているというこの事実は、当たり前すぎて盲点となる。めくらまされてはならない。目に見え、手に触れられるものものの方が、まぼろしなのだ。「精神生活」に対するところに「物質生活」などありはしない。そんなものは、ダイヤモンドに目が眩んだ者の寝言である。ダイヤモンドに目が眩むことができるためには、こころが先にそれを欲していなければならないからだ。こころこそが全てであり、私たちには精神生活だけが存在するのだ。」

投稿者: 翔@東京 (4月 6, 2004 08:52 午後)



23:27:26 | akybe | comments(0) | TrackBacks