November 27, 2005

CIT:障害は祝福

「障害を抱えている僕(引用者注ートム・サリバン:生まれつき盲目の俳優・歌手)だが、自分のボートに満足している。それは、僕がただ受け入れたからではないーーここが肝心だ。ただ受けいれたのではなく、祝福しているからだ。受けいれるのと祝福するのは、まったく別のことなのだ。」

「それは「ボートの外」のこと」 チャーリー・ジョーンズ著藤井留美訳 メディア・ファクトリー 2002.10.18
p.12

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November 17, 2005

CIT:万人がもつ詩を表す責務(金時鐘キム・シジョン)

朝日新聞2005年11月12日夕刊文化芸能欄時金鐘へのインタビュー(インタビュー・白石明彦)から

「岩盤のようなこの世に生きて、誰もがひっかき傷のような生の痕跡を残したいと思う。それが詩です。詩は万人によって書かれるべきものであり、人は自らの詩を何かに託して生きています。料理人にはいい料理を作りたいという一念がある。それが詩なんです。詩人はたまさか言葉による詩を持っているにすぎない。詩人には、言葉にできないものを抱えて生きるその他大勢の人々の思いを表現する責務があります。私がつむぎ出す詩の言葉は私個人の思いですが、その他大勢の人々に支えられたものでなければなりせん。
 日本の現代詩は優れて私的な内面言語をこね回し、自己と対話することに終始しています。生活実感に乏しくリアリティーがなさすぎる。社会的、政治的な詩を書けというのではありません。自分も、様々な悩みや矛盾を抱えて生きるその他大勢の一人であると認識したら、内面言語に執着してなどいられません。純粋さが詩の命ならば世俗にまみれた純粋さを見つけ出さなければ。さもなくば詩は観念の申し子にすぎない。
 時代が大きくカーブを切り、人類史的に見ても誇るべき憲法が損なわれようとしているのに、現代詩の表現に時代の陰りはほとんど見えません。不安のおののき一つ見えない。今の日本ほど詩が軽んじられている国は地球規模で見てもありません。」

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November 10, 2005

CIT:argumentは喧嘩ですか?

「ほんとうの英語がわかる51の処方箋」ロジャー・パルバース/上杉隼人著 新潮選書2001年 p.187~191

「日本社会では敬意が示されるが、西洋社会では対立的になる。
 これが両社会における大きな違い(key difference)です。しかし、よく考えてみて下さい。それは単に表面的な違いだけです。というのは、日本社会における敬意は、西洋社会における対立と同じ役割を果たしています。
 互いに敬意を示し合うことによって、互いに距離を置くことによって、日本人は互いの平穏を保ちます。……
 西洋社会に見られる人々の対立姿勢は、日本人にすれば少々行き過ぎの感があるかもしれませんが、それは実際日本社会における敬意の提示と同じ役割を果たします。それによってぼくらはぱっと癇癪を爆発させることができるし、逆にその怒りを抑えることもできます。それは安全弁です。論争する、言い合う、腹の中の熱いものをすべて残さず吐き出し、人にわかってもらう……これこそ平和維持行為です。あまりに慇懃な態度を保持して、言いたいことも言わずにいれば、西洋においては、フラストレーションがたまり、ついには暴力にまで発展してしまいます。
 この慇懃な態度(これも度を過ぎれば慇懃無礼になってしまいます)が、日本人が欧米社会で成功を収めるのをむずかしくしているのかもしれません。日本人の中には論点を主張しない人もいれば、自分の立場を明らかにしない人もいます。これによって、その人たちは意気地がないと思われたり、その消極的な姿勢ゆえに相手を怒らせてしまうことがあります。日本人は欧米人に対して、欧米人が日本人に対するよりも、概して寛容です。ぼくらが腕を振って何かを力説しようとしている様子を見て楽しんでいるふしさえ時にうかがえます。
 ……
 しかし、とにかく、ぼくら欧米人は論争が大好きです!
 でも、論争(arugument)とは何でしょう?ディスカッションでしょうか、口論(quarrel)でしょうか、それとも実際の殴り合い(real fight)でしょうか?
……
 思うに、日本語の「喧嘩」に一番近い英語は、argumentです。しかし、手元にある一番大きな和英辞典でkenkaを引いてみても、quarrel,dispute,altercation,wrangle,brawl,squabble,row,disagreement,dissension,feud,fight,scuffle,fray,strife,free fight,free-for-allと出てきますが、argumentはどこにも見当たりません!」
 ……
 ぼくの両親は、ぼくが幼い頃、しょっちゅう夫婦喧嘩をしていました。家族はみんなそれを an argumentと言っていました。ぼくはそれが「喧嘩」にピッタリの訳語だと信じています。
……
 しかし、どうしてぼくら欧米人はargumentにそんなにこわわるのでしょう?
 それは、この単語の中心の意味を知ればわかります。 
argueは、「明らかにする、論証する、証明する」(to clarify,demonnstrate,prove)ことを意味するラテン語から来ています。
……
そしてもう一つの意味は、「論争する、主張する」(to dispute,to insist on)ことです。
……
to argueの3番めの意味は、「何かについて賛成か反対か論議する」(to discuss the pros and cons of something)ということです。
 そして4番めの意味は、「強く反対する、怒りのことばを浴びせ合う」(to disagree forcefully,to exchange angry words)ことです。」

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November 08, 2005

CIT:「話の腰を折る」のを厭う日本人

「ほんとうの英語がわかる51の処方箋」ロジャー・パルバース、上杉隼人著 新潮選書p.45~46

「to interruptが一番普通に使われるのは、たぶん人々がお互いに話している時だと思います。そしてこの使い方にこそ、日本人と欧米人のコミュニケーション方法の違いが示されている、とぼくは感じます。
 世界中の人たちが、ほかの人が話している時にそれを遮ってしまうのは無礼なことである、と教えられていることでしょう。なるほど、ほかの人が話し終えるまで話し出さずに待つというのが、世界共通の礼儀です。しかし、多くのヨーロッパ人、アメリカ人、オーストラリア人、ブラジル人、インド人、中国人……そしてそのほか多くの国の人たちは、何か話したいという欲求に駆られれば、人が話していようがいまいが、おかまいなしに口を挟んでしまうのではないでしょうか。
 ぼくはユダヤ人ですから、人間のこうした面を特に強く感じます。なぜならユダヤ人は、ほかの人が話している時に口を挟んでしまうのはもちろん、二人が同時に話してしまうことも日常茶飯事です。ぼくは日本の雑誌でかなりたくさんの対談をこなしてきましたが、その際にはいつも礼儀正しくあろうと、すなわち、相手が話し終えるまで絶対に口を挟むまい、と心掛けています。しかし、常々思うのですが、もし本物のユダヤ人同士の対談を雑誌に収録すれば、それはまるでオペラの二重唱を聞くかのように、平行して流れる二つのコラムをを同時に楽しむことができるでしょう。
 相手が話し終えるまで辛抱強く待ち続ける日本人の自制心というものに、ぼくは常々感心しています。to interrupt someone who is talkingに対応する日本語の成句は、「話の腰を折る」だと思います。もちろん、この「腰」は強くてしなやかなものでしょう。うまい「そば」にも「腰」があります。これを折ってしまうのは、ユダヤ人にとっても、まったくいいことではありません。(To break this is definetely not a kosher thing to do.)
ですから、今度誰かおしゃべりな人が何かを考え中のあなたに話し掛けるなどして邪魔をするなら、こう言うのがいいでしょう。

"Please don't interrupt me."(ちょっと待ってよ)

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