October 15, 2006

DahlとHeyerdahl

2006.10.10日誌

 今日読み終えた”Charlie and the Chocolate Factory"の著者は、Donald Dahl(1916-1990)だが、裏表紙の著者紹介に(He)”was born in Wales of Norwegian parents"とあった。昨日、読み始めた「葦船ラー号航海記」の著者Thor Heyerdahl(1914.10.6-2002.4.18)の後半のdahlと同じスペルではないか。生年月日が近く、同じ時代のノルウエー人であることに気づいたというわけである。
 なお、「葦船ラー号航海記」を読み始めたのは、今年の夏、ノルウエー旅行をした際、オスロにある「ヘイエルダール博物館」を訪れ、ラー号、ラー?世号の実物を見てきたからである。もっとも、博物館に行ったのは「コンチキ号探検記」を読んでその面白さの記憶が残っていたからであるが、ラー号航海記のほうも、面白そうである。

(追記)Heyerdahlが、立証しようとしたエジプトのピラミッドとマヤ文明のピラミッドの類似性に、関心を持っていたら、BBCがまとめた、干ばつでマヤ文明は突然滅びたという説を唱えた学者のドキュメンタリーフィルムを放映していた。

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October 20, 2005

幼い日の記憶(1955.12.26の日記から)

1955年12月26日晴れ

(ぽかぽかしたいい日でした。)

 一般に記憶という意味がどういうことだか、それを教えてくれる人はこの世にいない。 それほどデリケートな神秘なるものだ。

 私の脳裏には幼かった頃の思い出がある。 それを今ここに備忘の控えをしても悪くはあるまいと思う。

 僕がまだ学校に通ってい なかった頃のことは断片的にスポットライトの光の弱かった部分として思い出す。ガー ドの上ーそれは赤かったーを、汽車がいや電車だったかもしれないーこれ以上追って はいけないその乗物さえ走っていたかはっきりしなくなるーがごおっと走っていっ た。そして街灯は首の曲がったのであった。ところで、私はその時の連れを全然覚え ていない。その時が父母が後年話した私の迷子の経験の時だったのかも知れない。

 どっ かの小父さんの背中にまたがってついにその人の鼻血を出させてしまったこと。緑の 垣根、ハーモニカをもらった。姉(下の)と留守番の時に誰だったかー伊勢松っちゃ んかも知れないーがやってきてびっくりしていたら、母が乳母車を引いて帰って来、 やっと安心したこと。つい前の警察署。ドブ。アスファルトの広い道。駅。どこかの 兵隊さんがやってきて動物園に連れてってくれた。大きなカバがあくびをした。水前 寺公園のかすかな景色。船に乗った。どこかに旅行した(それが島原だった)。

 私の 幼児の時の記憶といえばこのくらいだ。

(たまたま開いた日記に、幼い日の記憶が記録されていたので、ここに収録することにした。)

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July 09, 2005

日記:1964.8.20(木曜日)

1964.8.20

木曜日



〇雨と降るならば今 日の雨のように…

朝、眼が覚めると雨 の音だ。久しぶりに聞く雨の音だ。何となくほっとして窓を開ける。白い雨脚の下に屋根並が遠くまでキラキラ光っている。木々が生き返ったような顔をして、 静かに天を仰いでいる。



ほんとうに一月ぶり の雨だ。昨日までは連日の猛暑だった。7月22日以来毎日31度を越す日が続いていた。明治何年かに31日間も31度を越す日が続いたことがあるそうで、 今年はこれを破るのではないかと新聞が騒ぎ出した矢先だった。

待ちに待った雨だっ た。



つい、五日前の終戦 記念日にこんな冗句がNewspaperに載っていた。



歴史

19年前??廃墟

19年後??サバク



まさしく東京は砂漠 と化しつつあった。貯水池には完水時の2〜3%程度の水しかなく、給水制限は第4次まで強められ、一日中断水する区域も出る始末。と うとう自衛隊までが、引っ張り出されて、給水作業をやっていた。土はからからに乾き、人間の心まで乾きつつあった。まさに今日の雨こそ慈雨である。



人々は等しくほっと 胸を撫ぜ下ろしたことだろう。

白い雨脚が激しく舗 道にたたきつける。

自動車が水を撥ね上 げながら、疾走するさえ、子供が嬉々として水浴びしているかのように感じられる。



夜更けまでに東京地 方で53.3mm。小河内貯水池の付近で85.6mmの雨が降ったとRadio のNewsが伝えている。これで500万トンの水が、貯水池に流 れ込むとのことである。給水制限もいくらかは緩められることであろう。



雨はまた秋がついそ こまで来ていることを教えてくれた。そういえば8月も20日、こんな涼しい日が週に2、3日はあってもよい頃なのであった。朝方パジャマだけでは薄ら寒い 雨気をはらんだ風に、今年もまた秋が、連日の猛暑の後ろでじわじわと忍び寄っていたことを感じたのだった。そういう目で見れば、雨に濡れた景色には、どこ となく秋らしさが感じられ、もはや華やかな夏の面影は、どこにも見当たらない。一夜にして夏は去り、秋がやってきたのだ。



0時25分。雨の音がひとしきり高まっている。夜の暗闇が雨に濡れて、遠くに瞬く灯の明か りがひときわ輝くように見える。窓を開けた私の部屋を、秋を思わせる風が吹きぬける。
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日記:1964.8.16(日曜日)

1964.8.16

日曜日

〇女性は男性にとっ てオアシスで あるべきである。ところが、この世の中にはサバクみたいな女性のなんと多いことだろう。オアシスと思ってやっとたどり着いたところが、サバクの上の蜃気楼 であったりすると、われわれ旅人はほんとうにがっかりしてしまうのだ。やさしさとセンシビリティ、これがオアシスの泉であり、緑陰である。

女性らしい情緒とや さしさで快くわれわれを包み込み、われわれの憧れを見抜き、物事に対して人間らしい感受性をもってさえすれば、旅に疲れた隊商はいつまでもオアシスのもと を去らないはずである。



〇今日はルネちゃん とずいぶん遊んだ。彼女はまだずいぶん子供っぽくて、屋根の上を歩き回り、いろいろお転婆振りを発揮する。五日間海に行ってきただけあって、色は真っ黒、 それに屋根のトタンの錆がついて、やはり子供っぽい汚れ方をしている。

色々と楽しい口争 い。彼女は負けずに大きな声で反発してくる。ボールをぶっつけあったり、つかみ合ったり。でも、こんな気取りのない子供らしさも、あっという間に女らしい おしとやかさに変わってしまうのかも知れない。

「もっと女らしくし とやかにしなくちゃだめだよ」

屋根の上に夕日を背 にして、真っ黒になって突っ立って、犬や猫に棒切れや石ころなどを投げつけているルネちゃんに言うと、

「あら、私これでも ずいぶんおしとやかになったんだそうよ。子供の頃はもっとすごかったんですって」

とけろりとしてい る。

ぼくも中3ぐらいで 妙にませくれた女の子よりも、のびのびと明るく子供っぽい女の子のほうが好きだから、からかって言っているに過ぎないが、後3年たつと彼女も18の女の子になっていると考え ると、なんだか恐ろしいような気がしてくる。

11:19:19 | akybe | comments(0) | TrackBacks

April 25, 2005

1964.7.22(水曜日)

1964.7.22
水曜日

〇一夜寝もやらず、起きていたい夜もあるものである。
 そして今夜という夜こそそうした夜のうちの最たるものではなかろうかという気がする。
今夜日鉱の葺手寮に10人の通産事務官が集まった。僕にとっては初対面の人も多かったけれど、何と皆が一つに溶け込んで和気藹々のうちに会を終わったことだろう。今考えても不思議な気がするくらいである。
通産省に入って最初に配属になったところというものは、誰にとっても懐かしいものに違いないのである。僕にとってさえそれは懐かしいものになるであろう。末席事務官の悲哀を喜びをとにかくも一年ないし三年もの間宿命的に味わわねばならぬ定めをもって保安局管理課に配属された10名もの同志が一堂に会したのである。
昭和28年入省の小林さん(現臨調)をもって我らの大先輩とする10名の(残念ながら35年の吉田さんだけは欠けたけれど)事務官のほとんどが集まり来たって思い出を語り、昔を懐かしみ、現況を伝え、昔を偲ぶとき、また良きかなと僕ならずとも、叫びだしたくなるのも不思議ではなかったろう。
小林―田口―守屋―村田―小川―見学―吉田―米山―小島―阿部―中田と末席事務官の系統は尽きず、その系統の中に確固として貫く強いシンを見出すとき、保安局管理課に配属されたことの喜びはまさに極まるのである。
こうした縦の系列のある局も少ないことだろう。わずか3課からなるよくまとまった局の末席事務官にして持ちうる本当に心から楽しい会合であった。諸先輩の活躍ぶりを拝見し、僕も発奮せざるべからずと感じた次第であった。Do my Best!
 


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