April 25, 2005

1964.7.22(水曜日)

1964.7.22
水曜日

〇一夜寝もやらず、起きていたい夜もあるものである。
 そして今夜という夜こそそうした夜のうちの最たるものではなかろうかという気がする。
今夜日鉱の葺手寮に10人の通産事務官が集まった。僕にとっては初対面の人も多かったけれど、何と皆が一つに溶け込んで和気藹々のうちに会を終わったことだろう。今考えても不思議な気がするくらいである。
通産省に入って最初に配属になったところというものは、誰にとっても懐かしいものに違いないのである。僕にとってさえそれは懐かしいものになるであろう。末席事務官の悲哀を喜びをとにかくも一年ないし三年もの間宿命的に味わわねばならぬ定めをもって保安局管理課に配属された10名もの同志が一堂に会したのである。
昭和28年入省の小林さん(現臨調)をもって我らの大先輩とする10名の(残念ながら35年の吉田さんだけは欠けたけれど)事務官のほとんどが集まり来たって思い出を語り、昔を懐かしみ、現況を伝え、昔を偲ぶとき、また良きかなと僕ならずとも、叫びだしたくなるのも不思議ではなかったろう。
小林―田口―守屋―村田―小川―見学―吉田―米山―小島―阿部―中田と末席事務官の系統は尽きず、その系統の中に確固として貫く強いシンを見出すとき、保安局管理課に配属されたことの喜びはまさに極まるのである。
こうした縦の系列のある局も少ないことだろう。わずか3課からなるよくまとまった局の末席事務官にして持ちうる本当に心から楽しい会合であった。諸先輩の活躍ぶりを拝見し、僕も発奮せざるべからずと感じた次第であった。Do my Best!
 


16:18:47 | akybe | comments(0) | TrackBacks

1964.7.19(日曜日)

1964.7.19
日曜日

〇今日K.に電話をした。電話しようかどうかずいぶん迷ったのだけどとうとうダイヤルを回してしまった。電話の結末がどういうものになるか最初からわかっているような気がして、ずいぶん迷ったのだ。
 かけなければ良かったと電話が終わったらきっと思うことだろうと電話をかける前にも考えていたのだ。予想したとおりになった。悔恨の味は苦かった。でも、そうした結末がわかっていながらかけずにおれなかった自分がなおさらに愛しかった。
 つくづくと電話の不便さが思われた。面と向かって会っていたなら黙っていてもお互いの気持ちはわかるし、退屈なんかしやしない。それが電話となると事情が全然違ってくる。まるで短距離競争のようにお互いが、息せき切って話しまくらなければならないのだ。ちょっとした話の途切れが何か耐えられないようなものに感じられる。お互いの心が、その瞬間非常に遠くに隔てられたような感じがして、愚にもつかないようなことを話し出してしまう。自嘲の苦い笑いに唇を歪めながら、つまらない話に何とか収拾をつけようと、ますます深みにはまっていく。自分自身を、まるで野良犬を見るような哀れな目で眺めなければならないことになってしまうのだ。
 受話器を置いてやっと平常の心に立ち戻る。いったい自分は何のために電話したのだろう、いったいどんなことをしゃべったのだろう。受話器を持ち上げる前には、何と心は現実からかけ離れたところにあったことだろう。
「君の声を一声聞きたくてお電話したんだ」こんな甘い殺し文句をのうのうと伝える気がしていたのだ。つい2日前お互いの心があんなにも近くにあったのを、こんなつまらない電話で、むざむざと遠くかけ離れたものにしてしまいはしなかったろうか。いや、そんなことはないだろう。甘い期待とやるせない後悔の渦が心の中にぐるぐると激しい輪を描き始め、僕はのろのろと電話のそばから離れて行かざるを得ないのである。



16:17:30 | akybe | comments(0) | TrackBacks